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ソフィオ・アルモニコでつづる

アン・ブーリンの音楽帖

~エリザベス1世の母の足跡をたどって~

2021年12月19日(日)

第1回公演 開場 13:30 開演 14:00

第2回公演 開場 16:30 開演 17:00

会場 霞町音楽堂  ライブ配信があります。

前売券3500円 ペア券6000円 当日券4000円(全自由席)

■出演

ソフィオ・アルモニコ

ルネサンス・フルート

前田りり子

菅きよみ

野崎真弥

相川郁子

ゲスト

歌 佐藤裕希恵

リュート 瀧井レオナルド

脚本 石倉正英

 

ライブ配信あり!

ライブ配信チケットは2500円。下記から購入できます。公演後も一週間視聴することができます。

https://ongakudo.tokyo/product/211219soffio-armonico/

 

■プログラム

A. ブリューメル 《ただ死を待つ以外》

P. ド・ラ・リュー 《悲しみはいつまでも》

作者不詳 《クレーヴの踊り》

ジョスカン・デ・プレ 《アヴェ・マリア》

C.d. セルミジ 《あなたに楽しみを差し上げましょう》 他

■プロフィール

前田りり子

モダン・フルートを小出信也氏に師事。桐朋学園大学を経てオランダのデン・ハーグ王立音楽院の大学院を修了。トラヴェルソを有田正広、バルトルド・クイケンの両氏に師事。1996年、山梨古楽コンクールにて第1位入賞。1999年、ブルージュ国際古楽コンクールで第2位入賞。バッハ・コレギウム・ジャパン、リベラ・クラシカ、ソフィオ・アルモニコ、メネストレッロなどのメンバーとして中世から19世紀までのフルートを駆使して演奏・レコーディング活動をしている。また「フルートの肖像」を東京書籍より出版し、執筆活動にも力を入れている。東京藝術大学、上野学園大非常勤講師。公式ホームページ「りりこの部屋」で検索

 

野崎真弥

武蔵野音楽大学を経て、ブリュッセル王立音楽院の修士課程を修了。トラヴェルソをB.クイケン、F.トゥンス、前田りり子の各氏に師事。在学中ソリストに抜擢され、音楽院のオーケストラと協奏曲を共演。第28回国際古楽コンクール〈山梨〉第3位。「ラ・プティット・バンド」「レザグレマン」「ムジカ・アルタ・リパ」などの古楽団体で演奏する。また、「AYAME・アンサンブル・バロック」を結成し、日本、イタリアツアー他、ヨーロッパ各地の音楽祭に出演。2018年に帰国し、「バッハ・コレギウム・ジャパン」他、オーケストラや室内楽のフルート奏者として、ルネサンスからクラシカルまでのレパートリーを演奏している。http://mayanozaki.blogspot.com

 

菅きよみ

9才より大阪府の豊中市リコーダー合奏団に参加。10才よりリコーダーとフルートを故若林正史氏に師事。16才でフラウト・トラヴェルソに転向。有田正広氏に師事し、桐朋学園大学を卒業。その後ベルギーに留学。バルトルド・クイケン、マルク・アンタイ等の各氏に師事し、ブリュッセル王立音楽院を卒業。その間、1999年ブルージュ国際古楽コンクールにて第3位入賞。アニマ・エテルナ、ラ・プティット・バンドやその他の大小のバロック・アンサンブルのメンバーとして欧州各地で演奏。2007年に帰国し、現在バッハ・コレギウム・ジャパン、オーケストラ・リベラ・クラシカ、ルネサンスフルート・コンソート「ソフィオ・アルモニコ」等のメンバーとして演奏会やCDの録音を行う。ミュージック・スクール「ダ・カーポ」講師。

 

相川郁子

12歳でモダンフルートを始める。上智大学大学院博士課程前期修了。アマチュア奏者として精力的に活動した後に、本格的に古楽器に転向する。フラウト・トラヴェルソを前田りり子氏に師事し、2011年よりブリュッセル王立音楽院古楽器科にて研鑽を積む。フラウト・トラヴェルソをバルトルド・クイケン、フランク・トゥンス、アンネ・プストラウクの各氏に師事。2014年に学士課程修了試験を優秀な成績で終え、帰国。以来、室内楽や古楽オーケストラ等で活動を続け、フランスバロックやルネサンス音楽を中心とした自主企画公演も数多く行う。歴史をテーマとした企画に定評がある。アンサンブル・イレーヌ、イネガリテ、レ・ゾルフェのメンバーとしても活動中。

プログラムより--------------------------相川郁子

 

 アン・ブーリン。 6人の妃との結婚を繰り返したイングランド王ヘンリー8世の、2番目の王妃です。3歳にもならない一人娘を残して、断頭台でその短い生涯を終えました。後に残される我が子の身を、どんなに案じたことでしょう。幼くして母を亡くしたこの子が、将来エリザベス1世となって、英国に黄金時代をもたらすことなど、誰にも想像できませんでした。

 王に最初の王妃との離婚を決断させ、英国を新教国に変えるきっかけを作り、自らが王妃となってエリザベスを産み、断頭台で死んだアン。しかしアン・ブーリンは、その人生が残した結果だけで語るには惜しい人物です。王をたぶらかした魔女と蔑まれた彼女ですが、現代では英語圏の国を中心に人気が高く、SNS上にはファンたちのコミュニティまで存在します。彼女の何が、私たち現代人を惹きつけるのでしょうか。

 まずは彼女の経歴でしょう。アンは10代の多感な時期に外国暮らしをします。そして島国の一貴族の娘でありながら、神聖ローマ皇帝カール5世の学友となり、次いでフランス王フランソワ1世の宮廷で数年を過ごしたのです。フランスでは、晩年のレオナルド・ダヴィンチと出会っていた可能性すらあります。

 また彼女は、ルネサンスの文化・芸術、先進的な思想を大陸からイングランドに持ち込んだ、知的で才気溢れる女性でした。音楽にも長け、自分の気に入った曲の楽譜を収めた音楽帖も所有していました。

 さらに王族でない女性が王妃になるのは、この時代では異例のことでした。しかも16世紀のイングランドは、いわば完全なる男社会です。そんな中にあって、彼女は「ガラスの天井」を破ったのです。

 アンは、どんな人物であり、どんなふうに生きたのか。そして彼女の周りには、どのような音楽があったのか。本日のコンサートで演奏される曲をご紹介しながら、振り返っていきたいと思います。

  アン・ブーリンはイングランドの新興貴族の次女として、1500〜01年ごろに生まれたと考えられています。1513年、12歳ほどの年齢で家族と別れ、海を渡りました。その目的地であるフランドル(現在のベルギー)の宮廷では、神聖ローマ皇帝の娘であるハプスブルク家のマルグリット・ドートリッシュが、自身の甥のカール(のちの神聖ローマ皇帝カール5世)や姪たちと共に、貴族の子女たちを集めて教育を施していました。アンの渡航はその「学校」への留学が目的だったのです。16世紀は上流階級の女子教育が盛んになる時代でした。アンの父トマスは「娘を王妃の女官にし、いずれ上位の貴族に嫁がせたい」という野心から、この流行にいち早く乗ったと言えます。

 16世紀初頭のフランドルは繁栄を極め、イタリアと並び称される、文化・芸術の中心地でもありました。音楽は特に盛んで、ヨーロッパ各地で活躍する音楽家を輩出していました。利発で音楽好きな少女アンは、きっとこの地で目を輝かせていたことでしょう。

 この文化大国を切り盛りしていたのが、摂政マルグリット・ドートリッシュでした。彼女自身、芸術に造詣が深く、多くの芸術家のパトロンとなりました。音楽や舞踏を得意とし、自身の好む楽曲の楽譜を収めた見事な彩飾写本を編纂させています。 本日「2. マルグリット・ドートリッシュの宮廷」で演奏される 3曲は、いずれも彼女の写本に収められた作品です。

 女性ながらに政治の才能を発揮して国の舵取りをし、文化を花開かせるマルグリットは、様々な面でアンの手本となり、大きな影響を与えました。その姿にアンは憧れを抱いたことでしょう。アンはフランス語を瞬く間に習得し、貴婦人に相応しい立ち居振る舞いや気の利いた会話、舞踏や歌、楽器演奏などを学びました。そして宮廷流の洗練された身の処し方を身に付けていったのです。

  ところがアンの留学は、一年余りで突然終わりを迎えます。イングランド王ヘンリー8世の妹メアリーとフランス王ルイ12世との結婚が決まったのです。このときトマス・ブーリンは、フランス語の通訳ができる娘アンをフランス王妃の女官にすることに、見事成功したのでした。

 1514年、アンはフランスに移りましたが、わずか数ヶ月でルイ12世が死去。メアリーはイングランドに戻り、お付きもみな帰国します。しかしアンはフランスに留まりました。新王フランソワ1世の妃が、彼女を気に入り引き止めたためと言われます。フランソワは、ルネサンス時代を代表する君主の一人です。アンはその華やぐ宮廷に6年も身を置くことになり、多くの経験を積むことができました。優雅な身のこなしや教養、美的感覚に磨きをかけ、「生粋のフランス人にしか見えない」と言われるまでになったのです。

 「3. フランソワ1世の宮廷」で演奏される4曲のうち、ジョスカンとセルミジの2曲は、前述のアン・ブーリンの音楽帖に収められています。アンはこの写本をフランスで入手し、気に入った曲を書き足しながら、その後、祖国に持ち帰ります。その選曲にはフランドルとフランス、両宮廷の影響が見られます。セルミジの《貴方に悦びを差し上げましょう》の歌詞はフランスの宮廷詩人マロによるものですが、女性が男性を焦らすような詩の内容は、帰国後のアンとヘンリー8世の関係を暗示するかのようです。

 

 1522年、アンは縁談のためにイングランドに呼び戻されました。ヘンリー8世の妃キャサリンに仕えるようになると、アンのフランス仕込みの優雅な身のこなし、洗練された会話、見事なダンスや楽器演奏などが男性たちの注目を浴びます。しかし親族の利害関係などから、縁談も地元の若者との恋も、うまくいきませんでした。

 一方、国王ヘンリーは、男児を産まない王妃との結婚を悔いていました。彼女はヘンリーの亡き兄の未亡人です。「兄嫁との婚姻」というキリスト教の禁忌にあたるため、二人は結婚に際し、ローマ教皇からの特免状を得ていました。しかし生まれた子で成長したのは王女だけだったため、ヘンリーはそれが神の怒りの表れではないかと恐れたのです。キャサリンが出産の難しい年齢になると、彼は次第に、この結婚を無効にし、新たな王妃を娶ることを考え始めたのでした。

 1526年、そんなヘンリーは魅惑的な黒い瞳を持つアン・ブーリンに、心を奪われました。せっせと恋文を送ってアピールしますが、彼女は王の愛を拒絶し、実家に引っ込んでしまいます。実はアンの姉は、かつてヘンリーの愛人でした。結局は飽きられ捨てられるという愛人の末路を、アンは身近に見知っていたのです。姉と同じ轍は、絶対に踏みたくありません。

 ヘンリーにとっては、女性が自分の思い通りにならないなど生まれて初めてです。長身で筋骨隆々、狩りも得意でスポーツ万能、音楽にも優れ、教養も学識も高い。それなのにアンは逃げる。恋心はいっそう燃え上がり、王は彼女に熱い愛の言葉を送り続けます。

 王は本気だ。逃れる術はない。ならば受けて立とう。「私が欲しければ、王妃としてお迎えなさい。 必ずや男の子を産んで差し上げましょう。」アンは宮廷に戻り、王の恋人のように振る舞うようになりました。喜んだ王は、きっと得意の音楽でも、アンの気を引こうとしたに違いありません。「4. ヘンリー8世の宮廷」で演奏される3曲は、ヘンリーの作らせた写本から取られています。《タンデルナーケン》と《親しき仲間との気晴らし》は、ヘンリー自ら作曲したとされる曲です。彼の人となりが音楽に表れているようです。

 

 何としてもアンを我がものにし、嫡男を得たい。キャサリン王妃とは離婚するしかありません。それには再度、教皇からの許可が要ります。ヘンリー側は「先の結婚は間違っていた、従って無効である」と訴えます。しかしそもそも教皇が特別に許可した結婚だったのですから、そんな理屈は通りません。しかも教皇には、皇帝カール5世からの圧力がかかっていました。実は皇帝はキャサリンの甥でもあったのです。

 覚悟を決めた以上、アンも本気でした。彼女はフランスで知ったプロテスタント思想と新しい君主論をヘンリーに伝えます。ヘンリーは「国王は神の代理、教会の上に立って然るべき」という考え方に感化されました。そして、離婚の件で成果を出せない者や自分の方針に反対する者は、長年の寵臣であっても容赦なく失脚させたり、処刑したりするようになります。

 1533年1月、ヘンリーとアンは秘密裏に結婚しました。まもなく懐妊が判明します。子は男児であるに違いないと、誰もが口を揃えました。しかしアンとの結婚を公にしなければ、生まれた子を王の嫡子とすることができません。そのため、ヘンリーは離婚宣言を急ぎました。自らが英国国教会の首長となり、ローマ教皇庁とは決別。5月にはキャサリンとの婚姻無効を宣言し、アンと結婚したことを公表します。アンはついに、王妃となったのです。幸福の絶頂期でした。

 

 しかし、いざアンを手に入れると、ヘンリーの心は離れ始めます。彼女の気性の激しさ、主張の強さは、恋が冷めてみると鬱陶しくなるばかり。王は早くもアンの女官に目をつけました。それでも、生まれてくるのが男児であれば、アンの勝利です。彼女はそこに賭けるしかありませんでした。

 1533年9月7日、誕生したのは女児でした。ヘンリーとアン、双方の期待が裏切られたのです。二人の仲は険悪になっていきました。アンが1536年1月に男児を流産すると、ヘンリーは「神は私に男児を与えることを拒んでいる。この結婚が呪わしいものだからだ。」「アンは魔女だ。」などと口にするようになります。それを聞いた王の側近も、政敵のアンを消すべく策を練りました。

 そして5月、アンは逮捕されました。王への反逆、弟を含む5人の男性との姦通、さらに魔術を使ったという罪状ですが、捏造であることは誰の目にも明らかでした。しかし彼女と男性5人への死刑判決はすぐに下ります。まず、男性たちの死刑が執行されました。自らに非のないこととはいえ、自分のために弟が殺されたとの報せを、彼女はどんな気持ちで聞いたのでしょうか。そしてその2日後、 1536年5月19日に、アン・ブーリンは断頭刑に処されたのでした。

 作曲者不詳《おお、死よ》の歌詞の作詞者は、ロンドン塔に幽閉されたアンだと言い伝えられています。その真偽は定かではありませんが、この曲には彼女の心情が、悲痛なほどによく描かれています。

 

 最期は悲惨だったと言うほかありませんが、女性には自分の人生などないに等しかった時代に、アン・ブーリンは果敢に生きました。そして、父王が男の跡継ぎにあれほどこだわったにも関わらず、遺された女児エリザベスは、母の遺志を継ぐようにして英国の君主となり、歴史に名を残しました。エリザベスは母の肖像画の入った指輪を、終生大切にしたと言われます。生まれた時代が違えば、もっとのびやかに生きられたであろうアンに想いを馳せつつ、エリザベス時代に活躍したダウランドによる《悲しみの涙》と《来ておくれ、重き眠り》で、このドラマを閉じようと思います。

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